じぶんに正直になること
幼稚園か小学校に入ってすぐくらいのこと、
自己紹介カードのようなものをクラスで書かされた。
「なまえ」、「にがおえ」、「すきなたべもの」…
わたしは「すきなたべもの」の欄に「にんじんしりしり」と書いた。
(「にんじんしりしり」は人参を細かく千切りにしたものを卵と一緒に炒める沖縄の家庭料理。とてもおいしくていまでも大好き)
後日、母親が授業参観か何かで「すきなたべもの」の欄をみたときに言われたことを今でも覚えている。
「『にんじんしりしり』とか貧乏臭い料理を好きな食べものとか言わないで!ハンバーグとかもっと手の込んだ料理を書きなさい」
その日からだろうか、自分の思ったことが「正解」なのかが気になるようになった。
自分の選択が「正解」じゃないと認められないから、授業で当てられて間違うのがとても怖かった。
「正解」かどうかが分からないから、読書感想文なんてとてもとても苦手だった。
母親の言うことが「正解」 なのだから、習い事がそんなに好きじゃなくても母親が「やってみる?」といった習い事ならなんでもやった。(小五のときは水泳とピアノと料理教室で土日は潰れた)
母親が喜ぶような「正解」を先読みして答えるようになっていた。
いつのまにか私の「正解」ではなく、親の「正解」を追い求めるようになっていた。
そうでもしないと見放されると、心のどこかで思っていた。
「そんなんじゃいけない」と気づけたのは大学二年、ちょうど二十歳くらいのときだった。
それまでは、親が不機嫌になりそうな酒が絡みそうな会やサークルに入るのは断っていたし、化粧もしなかった。バイトも単発以外は禁止されていたのでお金がなかったこともある。
大学二年の夏休みに、大学主催で韓国に短期交換留学をする機会があり奨学金を借りて行くことにした。英会話の勉強もしていたので、それを試す良い機会かもしれないと思ったからだった。
しかし、そこで感じたのは、自分の"幼さ"だった。
英語が全く話せない、というよりは「この場所でどのような話をしていいかが分からなかった」。日本語でも。
お酒の飲み方が全く分からなかった。あまり美味しくなかった。
昼は講義を受けたあと、夜の2時くらいまで外で遊んでいた。そんな夜中まで外出していたのは人生ではじめてだった。
それよりなにより、一緒に留学に行ったメンバー・韓国で合流したメンバー共に、私より自信があるようにみえた。わたしには自信がなかった。
周りはサークルやバイト、いろんな話題をもっていた。わたしにはなにもなかった。
とてもくるしい思い出だけど、そこから気づいたことはたくさんあった。
誰かが決めた「正解」なんて求めなくても、じぶんが「正解」だと思ったことをするものなのでは?
そこからさらに、じぶんに正直になるために、
Ingressやtwitterでの出会いが必要だったけど……
この経験が無ければ飲み会に積極的に参加するような人にならなかった、と考えると、じぶんを変えていくきっかけ(衝撃?)ではあったと思う。
あのとき一緒に行った人たちとは、連絡とる機会もなくなってしまったけど…
この体験をきっかけに私は少し大人になった、と思っている。
今週のお題「二十歳」